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ほうろうの歴史

 ドイツのケルン市立博物館刊行のほうろうカタログ(EMAIL:Kunst・Handwerk・Indstrie Koelnisches Stadtmuseum 1981)によると、ほうろう掛けされた最初の金属は、金及びエレクトロンと呼ばれた金と銀の合金、稀に銀で、その後になってブロンズ、真鍮や鉄もケルト人やガロア人のほうろう加工に使われていたようです。
 同書によると、現存するほうろう加工の最も古い証拠品は、エーゲ海のミコノス島の発掘品に由来し、紀元前1425年頃と推定されています。これは金の表面の凹みに青色のほうろうが充填されたもので、原材料の青色ガラスは、ミケーネ文明を彩る小さな玉や、飾り板に使われたのと同じです。
  こうしてミコノス島で発見された技術は、以後東はキプロス島、西はギリシャ本土へと二手に分かれて中東から遠く中国へ、片方はフランス、ドイツへと広がったと推定されます。
 その何れの流れかは定かではありませんが、中国人が現代の七宝を呼ぶ「琺瑯」の文字は、仏菻に由来するとされています。仏菻は、大秦国(トルコ)又はビザンチン(現在のイスタンブール)を指すと云われ(中華民国故宮博物館刊行:故宮琺瑯器選萃 1971)、これが仏郎→琺瑯に転化したのがほうろうの語源と考えられます。しかし我が国では、これを古来七宝と呼び、鉄ほうろうの初期には瀬戸引きと呼ばれていたのが、明治の中頃から琺瑯の文字を当時の新製品であるほうろう鉄器の呼び名に使うようになりました。

紀元前、エジプトから

 日本にも来ましたね。ツタンカーメン王の黄金マスク。まばゆいばかりの美しさで私たちを圧倒しました。あの黄金マスク(BC.1300年ごろ)が実はほうろうの最初期のものなのです。
  黄金マスク以外にも、エジプトでは世紀前にほうろう製品がいろいろつくられていました。と申しても、この時代のほうろうは、現在、一般的に使われている鉄ほうろうとは違い、金・銀の金属質にエナメル質ガラスを加工したもので、いわゆる金細工工芸に類似した一種の七宝でした。しかし、こうした黄金マスクなどが存在するということは、人間が相当古い時代から、金属とガラスを結びつける技術を持っていたことを確実に証明するものです。

剛と美をあわせもつほうろう

 では、現在私たちがいうところのほうろうとは一体何なのでしょうか。
 大ざっぱに申せば、鉄やアルミなどの金属を下地にして、その上にガラス質のうわぐすりを高温で焼きつけたもの・・・それがほうろうです。
 たとえば、今日、最も多く利用されている鉄ほうろう。これは強いけれどサビという大敵のある鉄と、美しいけれどすぐこわれやすいガラスを結合させたもの。鉄はガラスによってサビが防げ、ガラスは鉄によって強さを与えられたわけです。つまり人間は、金属の「剛」とガラスの「美」を結合させて、強く美しい、しかも両者の持つ他の長所をも最大限に活かした、全く新しい素材を生み出したのです。(なお七宝とは、金属の中でも特に金銀や銅を下地にしてつくり、装飾、美術品として使われるものをいいます。つまり金銀ほうろう、銅ほうろうのことです。)

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はるかなるほうろうの旅

 さて、お話をもとにもどせば、エジプトで生まれたほうろうは、その後、文化の中心が移行するにつれて、世界中へと伝播をしてゆきます。
6世紀、世界の文化の中心はビザンチン帝国(東ローマ帝国)の首都・コンスタンチノーブル。この地で花ひらいた七宝工芸は、やがて11世紀ごろからフランク王国(後の仏・伊・独)に移り、さらに大輪の花を咲かせることになります。しかしながらこの時代のほうろうも、金・銀・銅を下地とした高価な工芸品や装身具(指輪・たて・馬具)が中心で、庶民とは縁のうすいものでした。
 一方、ほうろうの東への旅は6世紀末に始まります。サラセンやビザンチンから、シルクロードをはるばる旅して隋(580〜618年)に伝わったほうろうは、唐・宋と受けつがれ、明時代には中国独自の七宝技術が開発されるまでに発展します。もちろん、中国も例にもれず、ほうろうの目的は美術・装飾が主でした。
さて、隋から朝鮮半島を辿ったほうろうは、いよいよ東の果て日本に上陸することになります。

飛鳥時代、日本へ

 ほうろうが日本に姿を現わしたのは聖徳太子の飛鳥時代。しかし、飛鳥時代といえば、今から1400年も昔。実のところ、この時代のほうろうについてはあまりよくわかっていません。はっきり、ほうろう(厳密にいえば七宝)と分かるもので世界的に有名な最初期の作品は、正倉院の十二陵鏡。およそ奈良時代(8世紀)までにわが国でつくられたものといわれています。
 その後、ほうろうは歴史の表面から消えたりもしましたが、桂離宮のふすまの引手や釘隠しなどにも使われながら、着実にほうろう独特の美観と機能を人々に印象づけていきます。
 江戸時代には刀のツバや印籠、煙草入れにまで用いられるようになりました。しかし、ほうろうが装飾としての七宝から別れて独自の道を歩み出したのは、明治になってからのことです。つまりこのころからやっと、鉄を素材にした鉄ほうろうが実生活の分野にも進出し始めました。

装飾品から実用品へ

 こうした傾向は世界的にみられ、どこの国でも18世紀まではただひたすら美的なものとしてのみ、ほうろうは扱われ、人々の関心は装飾の美に傾注していました。実用品としてのほうろうの歴史はきわめて新しく、鉄板の製造技術の開発(1735〜1856年)やソーダ灰の製造法(1792年)、ほう砂の精製法(1860年)の発明と時を同じくしています。
 実用化の第一歩は、イギリスからでした。鉄のサビ止めとして応用されたのが始まりです。その後、ドイツ・オーストリア地方を中心にほうろう工業は発展し続け、1924年の大量生産方式の確立とほうろう用純鉄の開発、1948年のチタン釉薬(うわぐすり;後述)の開発などにより、新しい優れたほうろうが次々と生産されるようになったのです。

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大きく成長した日本のほうろう工業

 ヨーロッパに遅れること50〜60年。日本では1866年に桑名の大鍋屋広瀬与左衛門が鋳鉄ほうろう鍋をつくったのが最初です。ついで1885年、大阪の小田新助によって鉄板ほうろう鍋が開発され、1890年には陸海軍の食器として使われるまでになりました。
 以後、わが国のほうろう工業は幾多の変遷を繰り返しながら現在に至っています。50年前、創成期のころは、洗面器、スープ皿、ライス皿、茶瓶、弁当箱などが主力商品。中には粗悪品もあり、そのおかげでほうろうといえば“はげ易い”というイメージがずい分あとまで残ってしまいました。
  しかし、その後、自動化の促進と学術的基礎研究の結果、次々と改良品や新製品がつくられ、品質も格段に進歩しました。すなわち、今までアンチモンほうろうが上白ぐすりの主体であったものがチタンほうろうに転換され、衝撃に対する強度が著しく大になりました。一方、技術的に大量生産が困難とされていた鋳鉄ほうろうも可能となり、さらにまた、耐酸ほうろうの誕生出現までを見たのです。
  こうして、従来にない優れた性能を発揮し始めたほうろうは、急速に活躍分野を広め、さまざまな方面から求められるようになりました。ほうろうならではの特性と、それを裏打ちする高品質が認められたのです。
  今では、鍋や浴槽などはもとより、タンク、化学機器、燃焼機器、建材、医療器具など、生活の、産業の、たくさんの分野でほうろうが使われています。私たちの暮らしに、ほうろうの美しさと優れた性質が一役も二役も買っているのです。

ほうろうの定義

 米国のASTM規格では、「ほうろうとは、425℃以上の温度で、融解によって金属に接合された本質的に磁化又はガラス質の無機コーティングである」と定義されています。
  しかしながら、実際にほうろうは、金属に焼き付けたコーティング(うわぐすり)を指す場合と、仕上がり製品(ほうろう製品ともいう)の、両方を指すことがあって、はっきりさせるには、「ほうろう...」、例えばほうろうコーティング、ほうろう製品、またはほうろう加工等と表現する必要があります。
  英国では"Vitreous Enamel"、米国で"Porcelain Enamel"(ほうろう製品を単に"Porcelain"ということもあります)、ドイツで"Email"、フランスで"email vitrifie"、イタリアで"smalto porcellanato"、ロシアで"emal"、中国では"塘瓷または琺瑯"の言葉が使われていますが、うわぐすりと製品の両方を指すことも各国共通です。

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